20187月3日

先史古代研究会


熊山遺跡とは何か 各論紹介


『きび考』寄稿論文へのリンク

吉備国研究者のHPリンク



熊山遺跡とは何か

 

熊山神社境内1号と陶製筒型容器 天理大学蔵
1956(昭和31)国指定史跡
写真を並べて比較する。熊山神社境内1号と最も似ている遺跡は何処か。
先史古代研究会事務局へ、メールにてご意見をお寄せ下さい。

封筒町内会会長宛のメール用

先史古代研究会事務局 山崎泰二 senshi@bosaisystem.co.jp



先史古代研究会事務局よりお知らせ

3月20日 きび考15号がHP上にて公開されました。
ご感想等、是非お寄せください。


平成29年2月11日(土)建国記念日に恒例の先史ウォークが行われました。
先史ウォーク 井上秀男さんと新熊野(いまくまの)を歩く
木見駅前 ⇒ 由加みち 大鳥居 森池 ⇒ 特殊器台(向木見型)発見場所
⇒ 冷泉宮頼仁(よりひと)親王御陵墓 ⇒ 修験道総本山・五流尊瀧院(御庵室)
⇒ 本殿(大久保利通公の馬車) ⇒ 真浄院 ⇒ 桜井宮(覚仁法親王御陵墓) 
⇒ 後鳥羽上皇供養塔(宝塔) ⇒ 熊野神社 ⇒ 福岡神社 昼食
⇒ 尾原(法輪山一等寺清浄院) ⇒ 清田神社
⇒ 木見駅発 15時3分発
⇒ 岡山駅着 15時29分
好天に恵まれ一同大満足の先史ウォークでした。
 先史ウォークの感想PDF山崎泰二


平成28年2月11日に下記にて案内のありました先史ウォークを行いました。天気にも恵まれ、30数名にて石上郷の古道を堪能しました。
途中、6世紀後半ごろと推定される須恵器との出会いもあり、印象深い探訪となりました。案内いただいたY様はじめ、皆さまありがとうございました。
(後日、須恵器は公共にて管理していただけることとなりました)

280211torii.JPG へのリンク  280211kagamiiwa.JPG へのリンク   280211sueki.JPG へのリンク

2月11日に恒例の先史ウォークを行います。今回は、「石上郷の古道を歩く」です。
物部氏や石上氏とのゆかりを求めて、岡山県長船町の古墳や神社をめぐります。亀岩を始めとした磐座や環状列石等見所いっぱいです。
参加ご希望の方は、事務局までご連絡ください。
1、先史ウォーク案内
2、石上麻呂と石上郷について  会長 丸谷憲二
3、亀岩神社 安仁神社の磐座写真

                 以上


平成27年10月4日に開催した先史ウォーク「西大寺一宮・安仁神社の遙拝所と神武天皇伝承地めぐり」の調査報告が丸谷会長よりありました。4月より調査に入ったそうです。
当日は、野崎豊先生(神社考古学・神道考古学)の特別ガイドとなり、地図に無い神社・素戔嗚神社と妹岡八幡宮(片岡別宮)が追加され、合計10か所の神社を参拝しました。
吉備国の神道史研究に収穫の多い研修となりました。
以下に丸谷会長のまとめた報告をPDFにて公開いたします。

1 平成27 年6 月23 日 先史ウォーク「太伯周辺の神武天皇伝承地」
「西大寺一宮安仁神社の遥拝所めぐり」「備前一宮論争調査」第一弾


2 平成27 年9 月5 日 先史ウォーク 
「西大寺一宮 安仁神社の遥拝所と神武天皇伝承地めぐり」

3 平成27年10月10日 綱掛石神社の環状列石

4 平成27 年10 月15 日 素盞嗚神社と片岡別宮

5 平成27年10月20日 安仁神社と『一遍上人絵伝』の藤井の政所

6 平成27 年10 月31 日 古道里山と天神社

7 平成27 年11 月15 日 一遍上人の安仁神社参拝ルートの考察

8 平成27 年11 月23 日 安仁神社元宮・亀の形をした岩座と16 菊の御紋章

9 平成27 年12 月06 日 阿知の地名由来と大伯

10 平成27 年12 月12 日 倉敷市西阿知と阿智神社祭神の考察


上記に関連して、11月8日に開催された「第2回高校生による岡山の歴史・文化研究フォーラム」にて、岡山学芸館清秀高等部地域史探求ゼミの発表テーマが同一の、「神武天皇と西大寺のつながり」であり、発表要点と参考文献をご紹介します。

高校生による岡山の歴史・文化研究フォーラムPDF

発表にあたって
岡山には国分寺や吉備津神社、最上稲荷など古くからの歴史を持つ神社仏閣が多い。本校の位置する岡山市東区にも、「はだかまつり」で有名な西大寺観音院や、神武天皇の兄を祭神とする安仁神社が存在する。
私たちは、神武天皇にまつわる神社が地元にあることに驚いたが、どのような由来で祀られているのかという興味から、今回は神武天皇を研究テーマの題材として取り扱うこととした。
調べていくうちに神武天皇は4人兄弟の末子であり、末子相続は遊牧民族の文化であることがわかった。このことから、天皇家のルーツはモンゴルに起源を持つのではないかと考えた。
しかし、私たちのグループが注目したのは、天皇家の祭祀儀礼には「狩猟」に関連するものよりも、新嘗祭のように「農耕」に関するものが多いという点である。実際、安仁神社の主神は穀物や食料の神とされている。私たちは、この点に強い違和感を覚えた。天皇家のルーツが遊牧民族であるならば、当然祭祀儀礼も狩猟に関するものが多いはずであり、農耕を重要視することは自らのルーツの否定に繋がりかねないと感じたからだ。私たちは、研究の過程で生じた、これらの疑問に対する答えを明らかにしようと試みた。

参考論文

モンゴル社会における小家族と末子相続PDF

以上




きび考11号 及び きび考12号がホームページ上に公開されました。PDFファイルとなっておりますので
(ホームページのずっと下の方にまとめてあります)
開いてご覧ください。

  ご感想等事務局にお寄せいただけましたら幸いです。

       よろしくお願いいたします。


7月21日に例会が開催されました。飛び入りで能勢さんのお話もあり、活況な例会となりました。

例会写真

当日2名の発表がありました。PDF資料をご覧ください。

    丸谷氏発表風景

       丸谷氏発表資料   吉備津神社75膳揃の謎    龍蛇様から見える出雲の神迎え祭りと神在月


    井上氏発表風景

       井上氏発表資料   平賀元義の足跡



27年7月度例会開催のお知らせ

 先史古代研究会の、7月度例会を7月21日火曜日におこないます。
場所:岡山市 ゆうあいセンター NPO会館2階研修室 
    住所は 岡山市北区南方2丁目13−1 (旧岡山国立病院跡)
月日 7月21日火曜日
時間 13時30〜16時30分頃まで
 講演を2つと意見交換会を予定しております。
 講演1、丸谷憲二「日本神道の起源を考える」吉備津神社七十五膳据神事及び出雲の龍神様からの考察 
 講演2、井上秀男「平賀元義の足跡と歌碑について」
 意見交換会等
参加費 資料代他 500円
 ※ふるってご参加ください。

高嶋探訪会について
先史古代研究会では古事記等に出てくる、神武天皇の高嶋宮の可能性のある場所をめぐる探訪会を開催してまいりました。日向より、瀬戸内海を東に向かった神武天皇は吉備の高嶋宮で数年を過ごし、さらに東に進む計画を練りに練ったことでしょう。会長 丸谷の報告書をアップいたします。


古代吉備探訪 「高嶋伝承地を歩く」最終報告(会長 丸谷)  PDFファイル

吉備の児島と神武天皇高嶋宮伝説地考察(会長 丸谷)  PDFファイル

高島児島探訪会の参加報告書(会長 丸谷)  PDFファイルです。クリックしてください。


 5−13 熊山遺跡についての新説が出ております。PDFにてご確認ください。


平成27年2月11日 高島探訪のお知らせ

渡船・・・神社参拝・周辺見学・岩座岩境)・真名井
   磨崖仏・88ヵ所(33観音の伝承も)・・・離島
 
宮浦 高島遥拝所参拝   昼食
          ○地元伝承・古事の紹介と講話 高島を考える会 森川・井上
          
          ○高島を考える会の取り組み紹介など   同    上

 集合:岡電=三蟠南バス停 徒歩約10分
            三蟠漁港(辻数馬宅前) 10:30
    岡山駅@乗り場9:43(10:03)発(430円)
  弁当持参・参加費=500円 小雨決行
 ※  催行されました。


平成25年度26年度の例会報告

9回 平成27年2月11日 高島訪問シリーズの最後になります。
岡山港前の「高島神社」訪問 岡山市児島湾の宮浦説

8回 平成26年10月8日
第1部 『上道(かみつみち)の物語』 中西厚
第2部 『草ケ部 大廻り小廻り山城の考察 古代山城名の推定 菊山城 古代の迎賓館説』 中西厚 丸谷憲二 PDF資料あり

7回 平成26年6月19日
『太伯と邪馬台国 倭人は太伯の子孫説−E邪馬台国吉備説論戦参戦』 丸谷憲二

6回 平成26年4月6日 
第1部 『吉井側右岸の貝塚 現状報告』 中西厚 丸谷憲二 PDF資料あり
第2部 『草ケ部 法追(ホウエ) 貝層の現状報告』 中西厚 丸谷憲二 PDF資料あり

5回 平成26年2月11日 高島シリーズ「幸(高)島」訪問
 『吉備に邪馬台国』の著者 ガイド 岡崎春樹 近藤孝正

4回 平成25年11月19日
 『芥子の光』尾高庸子  PDF資料あり

3回 平成25年9月17日 
『第一回四国八十八ヶ寺遍路旅(春)自転車旅』中島康之
『四国八十八ヶ所巡り 歩き遍路の旅』『きび考』寄稿 樋口俊介


第2回先史古代研究会 7月例会
7月17()13時〜17
会場 ゆうあいセンター大会議室分室2
講師=矢吹壽年氏
演題

 @ 縄文時代人は風水を知っていたか
       -縄文人は何処から来たか-
 A 山容と古代寺社の必然性について

矢吹寿年先生の40年間にわたる研究生活の集大成の講演でした。
@
の「縄文人は何処から来たか」は原日本人説に対して、自説を発表されました。秦氏の渡来元説に近い説でした。
A
の「神社仏閣は何故、そこにあるのか」との指摘は重要です。
 矢吹寿年先生の問題提起を受けて、研究が拡がっていくことを期待します。



5月第一回 例会の報告



2、説が追加されました。
 
  5−13 タジキスタン ヴァン仏教遺跡の突厥系ソクド人とのつながり。


1 はじめに

熊山のクマという漢字は当て字である。朝鮮語の「곰(コm)」由来説がある。朝鮮語の「곰」クマには「王様とか王とか又は神とか神聖な場所を表す言葉」である。渡来系に縁のある所に熊野という地名が多い。

基壇の中央には、縦穴の石室(約2m)が作られ、その石室に陶製筒形の陶製容器(高さ約1.62m)の中に15点の遺物が収納(若狭哲六 説)されていたとするが、未だに一般公開されていない。天理大学付属天理参考館(奈良県天理市)に熊山遺跡陶製相輪』として収蔵されている。

2 熊山遺跡研究の現状

@    熊山遺跡石積遺構の類似品探しによる考察が主である。

A    地名学による考察として伊部(忌部氏)に注目した小川光曜説・丸谷憲二説がある。

B 仙田実氏は平成15(2003)の『霊山熊山』で「熊山の研究は始まったばかりである。」としている。

3 熊山遺跡(Kumayama Ruins)とは何か。

いつ、誰が、何の目的で どこの国からの渡来人が作ったのか

これまでに公開されている代表的な17 説を紹介する。

4    各論紹介

4-1 戒壇説
@ 大賀島寺等覚院亮海(りょうかい)1683(天和3)岡山藩寺社奉行へ書上「戒壇跡」。
A 高木太亮軒1709(宝永6)岡山藩内の地理書『和気絹』に引用。
B 松本亮之助1837(天保8)『東備郡村志』に「戒壇三箇所あり、昔は五箇所」。
C 
沼田頼輔 説(西大寺町立高等女学校初代校長)『備前熊山戒壇遺跡考』『考古学雑誌第15巻第6号』1925(大正14)
D 
永山卯三郎 説「史跡熊山戒壇に関する調査報告」『岡山県通史上編』1930(昭和5)『岡山県通史上巻』

E 『和気郡誌』和気郡教育会1909年 山陽新報社
F 「付記戒壇跡」『改修赤磐郡誌』赤磐郡教育会 1950(昭和15)

唐招提寺 戒壇

唐招提寺 戒壇

唐招提寺の戒壇
唐招提寺の境内西側(金堂西側)に位置している。戒壇とは出家者が正式の僧となるための受戒の儀式を行う場所である。戒壇院の建物は江戸時代末期の1851年(嘉永元4)に焼失している、鎌倉時代に築かれた3段の石壇のみが残っている。1980年(昭和55年)にインド・サンチー(世界遺産)の古塔(大ストゥーパ第1塔)を模した宝塔が壇上に置かれた。唐招提寺戒壇は創建時からあったとする説と、鎌倉時代の1284年(弘安7年)に初めて造られたとする説がある。

唐招提寺 戒壇 http://takaoka.zening.info/Nara/Nara/Toshodaiji_Temple/Kaidan.htm

4-2 回壇説

重要なのは戒壇が露出岩盤の上に有る事で、従来の論者は、これに注意しなかったように思う。修験道の山では、これは影向石(ようごいし)とか、護法石、お亀石(お神石)などと呼ばれる磐座(いわくら)であり、これを巡る行道が行われる聖なる石である。回壇が戒壇と呼ばれ、開基に鑑真をすえることになったのであろう。「戒壇の回りを新しい宗教の人達がぐるぐる回りながら信仰し回るから回壇だ」
五来重 説(大谷大学教授)
山陰新聞 昭和5735日「熊山戒壇(回壇)と修験道」
誌上フォーラム『熊山町史参考資料編』

クリックすると新しいウィンドウで開きます

モンゴルのオボー

モンゴルの首都ウランバートル市街地の東、ウランバートル市ナラフ区にあるオボーである。
日本の道祖神は路の分岐点に置かれる。オボーは小高い丘の上にある。旅人はここでお参りする。周辺で石を拾い、時計回りにオボーの周りを3回転しながら、拾った石を投げて積んで行く。この時に旅の安全等を祈念する。遊牧民が旅の安全や冨を祈願する石積みである突厥国からの渡来人の築造と推定している。
丸谷憲二 説(先史古代研究会)

平成22320日 岡山市瀬戸公民館「瀬戸町の文化財を語る会」

4-3    奈良時代の特殊な造塔説 

梅原末治 説(京都帝大教授)
「備前熊山上の遺跡」『吉備考古第86号』1953(昭和28)吉備考古学会。

4-4    段塔説

石田茂作 説(東京国立博物館)
『日本の仏塔』1969(昭和44)

4-5    石積の塔説

坪井清足 説(財団法人元興寺文化財研究所・熊山遺跡緊急調査概報の執筆者)

作ったのは秦氏の一族、渡来人の信仰としてこの石積が生まれた」

田村園澄 説(九州大学教授 仏教史)

「石積の技術者は渡来の韓国人尹氏(ユン)である。尹氏は銅の技術者でもあった。

岡本明郎 説

4-6 経塚説

「経塚或いは高貴な人の墓か何れか」

陶製筒形の陶製容器が経筒の役目を果たしていたとの考えから唱えられた説。

小倉豊文 説(広島文理大学教授)
昭和3645NHK広島テレビ

常楽寺経塚

熊山遺跡と同一の石積み遺跡の原型が岡山市東区草ケ部万灯山の頂上にある。万灯山頂上の字名は経畦(キョウグロ)である。畦(あぜ)を(グロ)と読む。常楽寺では経塚と説明される。

経塚の石積みの石は大きな岩を割っている。大きな岩を何のために割るのかが解明されていない。

石積遺構が熊山全体に50箇所以上分布している。

 

常楽寺経塚

4-7 墳墓説
@ 素戔嗚尊の御陵説
 
 昭和5520日に大本教 出口王仁三郎聖師が熊山に登山した。
  
大本教 出口王仁三郎聖師説「神素戔嗚大神は死後100年を経て熊山に埋葬された。
  櫛稲田姫は経盛山の石積遺跡に埋葬されている」

大本教 出口王仁三郎聖師 説

A 熊山周辺にいた高徳の僧を葬った墳墓ではないか説。
  和気和気清麻呂にかかわりのある人の墓ではないか。」
近江昌司 説(天理大学)

「備前熊山仏教遺跡考」『天理大学学報 第85号』1973

B 和気清麻呂の墓説『吉永町史』
C「熊山の石積遺構は、渡来人の王の墓」
三藤勝之 説(熊山遺跡調査保存顕彰を進める会)

4-8 熊山遺跡と韓国の積石式塔 説

@ 熊山の東南麓にある伊部を本貫とする伊部氏は百済系渡来氏族であった。熊山の積石式塔は、香登の秦氏と関連があったと思う。1971年に韓国ソウルの梨花(イファ)女子大学教授秦弘(チンオンリプ)氏によって韓国に現有する二つの積石式塔が報告された。慶尚北道安東郡北後面および同義城郡安平面にある山腹に築造した立地条件なども熊山石塔と似ている。
 第一に日本の熊山石塔は朝鮮半島の安東・義城の石塔の影響を受けたと考えられる。つまり、熊山石塔を創建した人々は安東・義城地域の人々と直接の連絡交渉を持っていた。

第二には、右の連絡交渉は八世紀に行われていたことである。その開始や終焉の時期は明らかではないが、八世紀には活発であったことは熊山石塔の築造の事実が語っている。安東及び義城は洛東江の上流地域に位置し、両者の距離は約40キロ程度である。そして、この地域は旧新羅領であった。洛東江-筑紫-瀬戸内海-吉井川が八世紀の両地域を結ぶ海上ルートであったと考えられる。

田村園澄 説(九州大学教授 仏教史)

山陽新聞 昭和551229

A「韓国には、統一新羅の時代に熊山遺跡と同じ形式のものがある。
 熊山に仏塔を作ったのは豪族・和気一族以外には考えにくい。
 和気清麻呂、広世など和気氏が活躍した8世紀に和気氏が建立」
吉田晶 説(岡山大学名誉教授)
2000年第1回日韓文化交流シンポジウム

B 「高句麗の基壇積石塚()と同じ作り方をしている。龕(がん)も仏教だけでは説明できない。東アジアの視点で見るべきである。」
全浩天 説(チョン・ホチョン 在日朝鮮歴史考古学会会長)
2001
年 第2回日韓文化交流シンポジゥム

C 慶尚北道の山間僻地に集中。基壇部と5層の塔身部に別れ、最上部に空間施設を持つ。統一新羅時代の土着信仰と民衆仏教が融合し、9世紀に日本に伝播。

世権 説(安東大学教授)

D 高句麗系積石塚といわれている丹陽のテチャンイ墓は、積石塚でない可能性が強い。また堤川の階段式石積遺構は、民間信仰と融合した仏塔の可能性が強い。

「 基同 説(漢陽大学教授)

E 石積塔の始まりは加羅国時代(36世紀)だが、考古学的裏づけのある遺跡は未発見。統一新羅になって民衆仏教と同時に風水地理思想が浸透。仏教と融合。
宋 華燮 説(圓光大学教授)

F 蔚山広域市・能村銀幌里の底辺が20m、5層の階段式石積み遺構を実測調査。
 近くに瓦も有り仏塔と推測。新たに古蓮里で同じような遺構の他、円形の遺構を発見。
白承玉 説(蔚山大学教授)

 

韓国の方檀形積石塔(パン・ダン・ヒョン・ジョク・ソク・タブ)

@ 韓国慶北道安東市北後面石塔里 方檀形積石塔

A 韓国慶北道義城郡安平面石塔里 方檀形積石塔

B 慶尚南道 山浦(サンチョン)の伝九衡王陵(クヒョン・ワンルン、KuhyeongWang

山蒲郡今西面花渓里の方檀式7層石塔 史跡301

C 忠清北道忠州市 忠州富興寺方檀積石遺構 忠清北道記念物136

D 忠清北道丹陽郡 丹陽斜只院里方檀積石遺構 忠清北道記念物135

E 忠清北道堤川市 堤川校里方檀石造物 地方文化財203

他に、蔚州(ウルサン)積石遺構・聞慶積石遺構がある。

「韓国の熊山遺跡について」石田純郎(オランダ国立ライデン大学医学部医史学客員教授)
平成24216日熊山遺跡群調査研究会

안동석탑리방단형적신탑 

韓国 安東(アンドン)積石遺構       韓国 義城(ウィソン)積石遺構

韓国慶北道安東市北後面石塔里       韓国慶北道義城郡安平面石塔里

 

ソウルの石村洞古墳群

 

山清(サンチョン)積石遺構             慶州 陵旨塔

韓国の方壇型石積塔婆 http://stupa.web.fc2.com/korea/isitumitou/isitumitou.html

http://www.cha.go.kr/korea/heritage/

4-9 帝釈天の宮殿 説
  秦氏が建立した帝釈天の宮殿の可能性。67世紀に建立
  石積みを造ったのは、黒潮に乗って南方からきた南方海洋民族の末裔ではないか。
  それは、弓削にいた秦氏である。
  筒型円筒陶器はヒンドゥ教のシヴァ神の化身「リンガ」(男根)ではないか。
佐藤光範 説(熊山遺跡群調査研究会)

4-10 仏教以外の岡山の古代宗教 説

@「仏教遺跡以前の信仰・儀式の場所に、このような構造物が新しく造られた」

尹 弘基 説(ユンホンキ)1993韓国出身でニュージーランドのオークランド大学

A 仏教以外の岡山の古代宗教説
「様々な形の石積み遺構が山全体に分布していることは、韓国の場合と異なる。」
任世権 説(韓国・安東大学教授)

2001年第2回日韓文化交流シンポジウム

4-11 階段ピラミッド状の石積遺構 説
@ インドネシア・バリ島の山村で良く似た遺跡を発見。現地では子授けのご神体として信仰を集めている。これが黒潮に乗って日本に伝わったのではないか。最上段に男女の象徴と見られる石造物を安置している。熊山の筒形容器をその形状から男性の象徴とする見方があることに着目。この見解に従えばバリ島遺跡との共通点は一層強まる。熊山のピラミッドは、バリ島から黒潮に乗って日本に上陸した風習の可能性が高い。先史時代西太平洋は、黒潮によって広まった共通の文化基盤を持っていたのではないか。
小川光曜 説(同志社大学教授)
(19897)
1990
121日 読売新聞

A 「インドに発祥した仏塔がシルクロードの終着点である日本に伝播。石積みの塔は韓国を経由して吉備に直接伝播。熊山はシルクロードの終着駅。基壇の上に塔を作るのが基本的な形、その形態と良く似ている。その時期は7世紀」
長澤和俊 説(早稲田大学名誉教授・就実女子大学教授)

 

ピラミッド寺院プラ・カンエン遺跡(インドネシア・バリ島) パキスタンの遺跡

4-12 忌部氏の古代神祇祭祀 説 地名学として伊部(忌部氏)に注目。
@ 「熊山のピラミッドを作ったのは、山の麓に今も地名を残す古代の神官の家柄忌部氏  で、一族が力を失うとともに遺跡の意味も忘れられたのではないか。」
小川光曜 説(同志社大学教授) 1990121日読売新聞

A 『
忌部氏は古代神祇祭祀に携わる部民であり、熊山遺跡は忌部氏の古代祭祀跡である
 中国新疆ウイグル自治区の北部のイリ・カザフ自治州からカザフスタン南西部のアルマトイ州にかけて流れるイリ川と備前市伊里(イリ川)に注目している。
 「忌部氏の古代神祇祭祀説」は、中国本土や高句麗研究者のHPで公開されている。

丸谷憲二 説(先史古代研究会)
平成22320日 岡山市瀬戸公民館「瀬戸町の文化財を語る会」
Bスキタイ黄金兜説

 熊山町教育委員会編『熊山遺跡調査報告書』には、「国指定石積遺跡出土 陶製筒型容器」と命名し頭部を蓋としている。蓋の形状の説明は無い。陶製筒型容器との根拠は、筒の中に15点の遺物が収納されていたからである。須恵器であり日本では他所での出土例は無い。   石田茂作氏(東京国立博物館)は火焔を作り出した宝珠形から国宝 東寺金剛露盤宝珠に似ているとして、『熊山戒壇出土瓦製宝珠円筒』と命名している。若狭鉄六氏は「炎帝、即ち、太陽の神を祀った祭器」としている。炎帝とは「医薬の祖 炎帝神農氏」である。しかし、私は兜形祭祀遺跡と考えたい発掘に関する友光醒太氏の手記が、若狭哲六氏(熊山を語る会・備前市東片上)により公開されている。

重要なのは熊山遺跡の発掘が12年後に一般市民に知らされたという事実である。手記を読んで頭に浮かんだのは「スキタイ黄金兜」である。ウクライナを中心に紀元前7世紀に、黒海北岸に一大勢力を築いたスキタイ出土の黄金兜(BC 4世紀・ウクライナ国立歴史宝物博物館所蔵)である。騎馬民族の文化が中国をう回し、朝鮮半島を経由し熊山にたどりついたと考えた。しかし、天理大学収蔵の写真を入手すると、少しイメージが異なっている。スキタイはBC 73世紀にかけて、北コーカス、黒海北岸からドナウ川下流を支配したイラン系遊牧騎馬民族である。


4-13 太陽神説

陶製筒形容器を炎帝、即ち、太陽の神を祀った祭器
1985
(昭和60)11月に、備前市香登の古老より熊山遺跡から出土した遺物を知らされ独自に考証し7冊の著書を出版している。

若狭鉄六氏は、1989(平成元年)に熊山の鉄として、ヘマタイト(赤鉄鉱)を発見している。
熊山遺跡出土、陶製筒形容器と出土遺品
1989
(平成元年) 熊山遺跡調査報告 若狭哲六
2001
(平成13) 韓国研修報告『熊山遺跡群のルーツを求めて』

1989(平成元年)825日、NHKモーニングワイド にっぽん列島ピックアップ『謎の鉄鉱石を追う』放映。熊山の鉄 ヘマタイト(赤鉄鉱)発見
1989
(平成元年)416日、OHK(岡山放送)が「マンスリースペシャル謎」放映55分。
1993
(平成5)7月中国歴史考古史『文物天地』に紹介。
2011
(平成23)66日、備前市日生の「ひなビジョン マイライフ」放映15

若狭鉄六(備前市郷土史家) 説

調査復元が待たれる南山崖石積遺跡

 

熊山山中に点在する積石遺構
中には龕(がん)のあるもの、国指定と同規模のものも23基ある。

4-14 仏塔説
@ 「奈良時代に築成された仏塔である」『熊山町史 説』

A 「石積みの仏塔である」
吉房信夫 説(元熊山町史編纂委員長)熊山町中央公民館歴史講座 平成10326

B 熊山遺跡に似た石積遺構は、韓国では統一新羅の拠点となる慶尚北道に集中

同じような石積遺構の多い東南アジアからの海のシルクロード伝播も考えたい。

賈鍾壽 説(就実大学教授)2010年 佐治町中央公民館

C「韓国の方壇形異形石塔の構造は奈良の頭塔、岡山の熊山石積遺構に類似する。
   
頭塔を模して熊山遺跡が作られたと推定される。奈良の頭塔の1/9の規模。
   
新羅仏教の影響を受ける仏塔8世紀頃の建立」

「方壇式塔をめぐって-新羅仏教と奈良仏教」1988年『コリア』
東潮 説(徳島大学教授)

D 奈良の
頭塔、土塔との関連で仏塔89世紀に建立

出宮徳尚 説(元岡山市文化財課課長)

E 
熊山石積み仏塔説

一族の頭目または彼らが先祖とあがめる者を葬ったと考えられる。和気清麻呂によって、熊山遺跡古墳が熊山石積み仏塔に作り変えられた。磐座をこわして熊山遺跡古墳に変えたのは渡来人秦氏であった。仏塔への改造も技術者集団秦氏である。平成15

仙田 実 説(吉永町史編纂委員)

奈良の東大寺頭塔
頭塔(ずとう)は奈良市高畑町921番地にある土製の塔。頭塔は、東大寺僧 実忠が良弁(ろうべん)の命により神護景雲元年(767)に築いた土塔である。頭塔は方形基壇の上に方形七段の階段状土壇を築き、第一・三・五・七の奇数層 四面に各11基ずつ総数44基の石仏が整然と配置されていた。現在までに44基のうち28基が確認され、25基の表面には浮彫や線彫で仏菩薩像が表されている。頭塔石仏は、数少ない奈良時代の石仏としてきわめて貴重な遺例である。1922年(大正11年)、国の史跡に指定された。

大野寺の土塔
土塔(どとう)は、土塔山観音院大野寺(大阪府堺市土塔町)の境内にあった日本最大規模の「仏塔」である。土塔は奈良時代神護四年(727)頃に築造されたピラミッド状の瓦葺きの十三重の土塔で、一辺が53.1m、高さが8.6m。土塔山観音院大野寺は高野山真言宗寺院。本尊は十一面観音。奈良時代に行基が畿内に建立した49院の一つ。

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奈良の東大寺頭塔           大野寺の土塔

頭塔 http://www.geocities.jp/kawai24jp/nara-zutou.htm
土塔山観音院 大野寺/土塔http://blogs.yahoo.co.jp/sizuka2002jp/2555090.html

4-15 天道信仰 説

@「対馬にある天道信仰のメッカ天道法師塚もどこか似ている」

五来 重 説(大谷大学教授) 昭和5735

山陰新聞 昭和5735日「熊山戒壇(回壇)と修験道」

A 「対馬の八丁郭ヤクマの塔の石積は天道信仰によるものだ。塔の頂上に設けられた空間施設に石などを乗せており、韓国の石積遺構との共通点がある」
亀田修一 説(岡山理科大学教授)

B 対馬の八丁郭とヤクマの塔に注目。
佐藤光範 説(熊山遺跡群調査研究会)

対馬の八丁郭
対馬の八丁郭は長崎県対馬市厳原町浅藻(奥浅藻地区)。厳原町南部の浅藻地区の山中にあり、古くは卒土(境外)と称した。天道信仰の聖地であった。対馬では天道信仰の盛んな時代があった。天道山、天道地、天道茂などと呼ばれるもので、その古い磐境の跡が見られる。浅藻の八丁郭もその祭祀の場所で、天道山の南側の麓、千古の神秘をたたえた森の中に苔むした石積みの塔がある。この浅藻の八丁郭を表八丁郭と言い、天童(天童法師)墓と伝え、地方天道山の北側の中腹の聖所を裏八丁郭と言い、天童の母の祠と伝承されている。昔は「恐ろしい所」とされた不入の聖地だった。

 

ヤクマの塔
対馬の石文化の一つで“ヤクマの塔”と言われるもので、木坂地区にのみ伝わる伝統である。
ヤクマの塔は両墓制の名残りと伝承されている。

天童法師
伝承上の聖人。天武天皇白鳳二年(673年)対馬豆酘郡(つつぐん)内院村に生まれた超能力者。母が日光(太陽の光)でみごもったとされる天道信仰のシンボル。長崎県対馬(つしま)につたわる。空中飛行ができ,病気で苦しむ天子のもとへ飛んでいき治療した。「われ観音の化身なり」と遺言して死んだ。天道法師とも言う。

八丁郭1 

対馬の八丁郭             ヤクマの塔

愛するふるさと(オソロシドコロ三社参り編その1)(対馬)
http://shop.plaza.rakuten.co.jp/bijoduka/diary/detail/201105260000/

4-16 (ぼう)示石蔵 説

「勝尾寺(大阪府箕面市粟生間谷2914-1)の榜(ぼう)示石蔵など、数ヶ所に類似遺構有り。」
この八天石蔵は、鎌倉時代に勝尾寺の寺領を表す傍示として設置されたものである。寺域周辺の山林の計8箇所に銅造の仏像8体を信楽焼の容器に納めて埋納し、その上に石積の壇が設けられた。他に類例のない遺跡として貴重である。
「石を疂んで壇となす」といわれた旧態のまま遺存している。自然石をもって方形三段の壇を築いており、その下段は各辺4m、中断3m、上段2m、總高1mである。そしてこの内部陶製の壷を埋め中にそれぞれ高さ26cm乃至30cm青銅製の四大明王または四天王を一躯ずつ、本堂に面して安置していた。

久野修義 説(岡山大学教授 中世史)

イメージ 9

大阪府箕面市・勝尾寺の八天石蔵

勝尾寺の八天石蔵 http://blogs.yahoo.co.jp/yamakawatoo/36632132.html

4-17    修行台座 説

多くは行者の修行台座であった可能性は高い。行者が死ぬと台座が墳墓とされる場合があり、台座と墳墓はなかなか区別がつかないことも多い。

仙田 実 説

岡山文庫225『霊山熊山』仙田実 平成1511月 日本文教出版

 

4-18        「立体マンダラ」ではないか 説

空海はなぜ「立体マンダラ」を作ったのか。京都の東寺講堂に配置されている仏像は立体マンダラであった・・・。これは2011年10月号の月刊・文芸春秋の記事でした。謎といわれている熊山遺跡の石積みは、まさに立体マンダラではないか。さっそく作者の建築家の武澤秀一著「マンダラの謎を解く・三次元からのアプローチ」講談社現代新書(1994)をひもといてみました。そして新緑の季節にそこを散策してみました。東寺の講堂や五重塔、また穴太積みとして有名な比叡山の麓の坂本の石塀の屋敷通り、秦河勝の本拠地であったとされる太秦の蛇塚古墳や広隆寺、大避神社などをめぐり。また比叡山の阿弥陀堂では密教の千日回峰行を達成した塩沼阿闍梨の説法も聞きました。五重塔の起源はインド半島部のデカン高原にある「そこは地球最古の地層が眠る、感情移入を許さない荒涼たる大地。・・・・天空に接して延々とつづく水平線が突然切れ、急な崖となる・・・・・」そして起源2世紀ころから、人為を拒絶するかのようなデカン高原の大地の北西部に、インドのコスモロジーを体現する数多くの石窟寺院が開かれていった。石窟寺院とは、インドには紀元前3世紀からはじまる石窟寺院の伝統があった。自然の洞窟とはまったく異なり、地上に建つ寺院をそのまま大地のなかに再現したものである。

人びとはノミとツチを手にして果断に岩盤に挑んだ。大地から寺院を発掘したのである。デカン高原北西部には約一千の石窟が集中的に分布している。そのうち仏教窟が七百五十窟程と多く、これに大きく引き離されてジャイナ教窟、ヒンドゥー教窟がつづく。このことは石窟という形式が仏教に適していたことがうかがわせる。仏教窟はストゥーパをまつりささげる祠堂と、出家僧が居住する僧院窟の組み合わせからなる。これは当時,地上に建っていた木造伽藍のありかたを直接反映している。つまり石窟にせよ木造にせよ、伽藍は祠堂と僧院からなっていたのである。ふつう伽藍といえば地上に建つものを思い浮かべるが、インドでは11世紀ころまで石窟伽藍の開窟がつづいた。またストゥーパとは,ブッダの遺骨(仏舎利)を納めることからはじまった仏教モニュメントである。野外に建造されていたストゥーパが仏教窟の造営にともない石窟内に出現した。ストゥーパは漢語で卒塔婆と音訳された。それがつづまって塔婆、さらに塔となった。五重塔の語源もそこにある。屋外にあった塔が石窟内にもつくられるようになった。有難いものを強烈な日光や雨露からお守りする気持ちもあったろう、しかし、それだけだろうか。永遠の息吹を宿す小京都の東寺の五重塔宇宙 ブッダは接触点を通じて、窟を満たす無数のほとけに姿を変える・・・。無数のほとけは接触点を通じて塔の仏陀に帰る__これは大地の中に閉ざされながら、ここは永遠の息吹を宿す「小宇宙」である。これはマンデラではないか! 中心に座すブッダと周囲に遍満するほとけが織りなす三次元のマンダラ・・・・


マンダラはヒンズー教の影響を受けている

密教は4世紀ころインドにおいて大乗仏教に続いて生まれた。バラモン教の流れを汲むヒンドゥー教の影響を受け、インド伝統のコスモロジーや土着の習俗を広く取り入れている。7世紀には根本経典が成立し密教の体系化がなされた。マンダラ図はこれにもとづいて描かれたとされているのである。

宇宙の頂きとは、宇宙の中心にそびえる須弥山である。そこに「ほとけの住む宮殿」がある。つづいて「金剛頂経」は、大日如来はおよび四方仏の登場をつぎのように描写する。

大日如来は宮殿の中心に座し、全方位に顔を向けた。そのまわりに四体の仏たちが同時にあらわれ、東に阿?如来、南に宝生如来、西に阿弥陀如来、北に不空成就如来が着座した。大日如来はこれら四仏に囲まれ,四仏とともにすべてのほとけを生み出した。四方位にほとけが安置された「ほとけの宮殿」は、「金剛界マンダラ図絵」の先駆けとなった・・・。このように建築家である作者の武澤秀一氏は、三次元の存在である建築を歴史・宗教・文化の中に捉えて、塔やマンダラや霊場が聖なる力を帯びていく様相を明らかにしています。

 

 熊山遺跡の筒型陶器は大日如来である。

熊山遺跡の石積みはインド半島のデカン高原に開かれていた石窟寺院のひとつであると考えると、熊山遺跡の謎がいっきょに氷解するのではないか。石積みの中から発掘された筒型陶器はマンダラの中心の大日如来であり、先頭部は縄文土器の火焔で燃える生命でもある。また石積みの発案者や陶器を焼いた陶工の信仰のなかにヒンズーの教えが潜んでいたとすれば、筒型陶器がシバ神のリンガに似たかたちになったとしても不思議ではない。また石積みの四方の龕には、マンダラの掛軸にも描かれている阿弥陀如来や宝生如来などの仏像が祀られていたのではないか。さらに想像をたくましくすると、筒型陶器が納められていた石室の壁は漆喰で固められて、そこには仏像や蓮華などの絵画が描かれていたのではないか。

石積みは無縁の民により原生林の中に築造された。

熊山は備前平野では最高峰の標高508m。山頂近くには、今ではわずか2本の千年杉中国龍門?窟看経寺の大日如来を残すのみだが、かっては原生林に覆われた秘境であったと考えられます。歴史・民俗学者の網野善彦は「無縁・公界・楽」の中で、平安初期、9世紀以降に僧侶の山林修行は公認されて多くの寺院が山林に建立されることになったが、そうした寺院は多少ともアジール(逃込み寺)としての性格を持つようになったと思われる。戦国時代、「山林に走入る」とは、駈込寺に入ることを意味したが、ある種の山林そのものが、少なくとも中世前期、さらには古代末期、「無縁」の場としての性格を持ち、アジールの機能を果たしていた。アジールとは統治権力の支配下となっていても、いまだその支配を受けない場所のことで、古代朝鮮においても、高い大木を立てる神宮の境内(ソト)がアジールであったとしています・・・。縄文末期、そして弥生時代から古墳時代に、稲作や製鉄、そして須恵器などの技術をたずさえて大陸から渡来して熊山の麓に住みつき、また吉井川の清流によって物流などにも

活躍してきた。いわゆる秦氏などの末裔の人々が、鬱蒼とした原生林の中に石積みによるマンダラを密かに築き、天空の神様や先祖に感謝の祈りを捧げ、また一族の繁栄を願いながら原生林のなかを廻っていたのではないかと私は考えています。
中西 厚説 『会報 熊山の石ふみ』13 平成24625日熊山遺跡群調査・研究会



4-19 熊山遺跡出土 陶製筒型容器 古代鋳物炉 説

「陶製筒型容器の原型は古墳時代のキュポラ(鋳物溶融炉)ではないか。」説
「褐鉄鉱を陶製筒型容器の中で熱し、焼結(粉体を加圧成形し、融点以下の温度で熱したとき、粉体粒子の間に結合がおこって固体になる現象。)を行い鉄を造った。
  陶製筒型容器の原型は古墳時代の鋳物溶融炉である」との説である。
 キュポラ(Cupola furnace)とは、コークスの燃焼熱を利用し鉄を溶かし鋳物の溶湯を得るためのシャフト型溶解炉に分類される溶解炉である。

吉備国の古代製鉄と熊山遺跡出土の陶製筒型容器

⇒ 平成25年5月22日 先史古代研究会 発足記念講演


大井透氏説 平成23年1月17日







5 考察
5-
1 和気清麻呂の墳墓説
 墳墓説の中に、和気清麻呂の墓説『吉永町史』と和気和気清麻呂にかかわりのある人の墓ではないか。」という近江昌司説(天理大学)がある。
@ 舟下山1-犬塚(犬の墓)とは

犬塚(犬の墓)犬とは和気氏の蔑称である。犬を祖先とする氏族とは和気氏である。

伝承名が正確であれば和気氏の墳墓である。


舟下山1-犬塚(犬の墓) 平成23226日撮影

A 和気氏と犬 別部の犬(『播磨国風土記』讃容郡)

鉄を生ずる「十二の谷」を発見したのが「別部の犬(わけべの・いぬ)」だと播磨国風土記にある。別部(わけべ)も部民の名である。人でありながら犬を自称し、犬の子孫であり、鉱物を探し出す部民である。犬を祖先とする氏族とは和気氏である。

和気氏の先祖は磐梨別公(いわなし・わけの・きみ)という。別公の部民を別部といいそれが犬と自称していた。つまり佐用の鹿庭(神庭)の鉄を発見したのは、和気清麻呂の先祖の部民たちである。磐梨別公の祖は垂仁天皇(10代崇神天皇の子・イクメイリヒコ・イサチノ・ミコト)の皇子である「鐸石別命(ヌデシワケノ・ミコト)である。

B 犬狼大明神社(備前市西片上峠(タオ)新池近く)に注目したい。重要なのは犬狼との表記である。狼犬(ろうけん)は犬と狼の交雑犬である。狼の亜種である狼犬は、狼のDNA組成と殆ど同じく外見がかなり似ている犬種である。犬狼は交雑犬では無い。

C 熊山遺跡の犬墓・鬼が城の犬墓山(444)
          ⇔突厥国の建国神話「狼祖伝承」
阿史那氏伝承

和気氏は渡来人⇔突厥国⇒「イリ」の名前の付く歴代天皇は崇神天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと)垂仁天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)も渡来人⇔備前市伊里
 
5-2
 外観上の類似度
 類似しているのは、韓国慶尚北道の安東市(アンドン)北後面石塔里と義城(ウィソン)安平面石塔里のみである。義城積石遺構には龕(がん)がある。田村園澄説では、「日本の熊山石塔は朝鮮半島の安東・義城の石塔の影響を受けたと考えられる。つまり、熊山石塔を創建した人々は安東・義城地域の人々と直接の連絡交渉を持っていた。連絡交渉は八世紀に行われていた。その開始や終焉の時期は明らかではないが、八世紀には活発であったことは熊山石塔の築造の事実が語っている。安東及び義城は洛東江の上流地域に位置し、両者の距離は約40キロ程度である。そして、この地域は旧新羅領であった。洛東江-筑紫-瀬戸内海-吉井川が八世紀の両地域を結ぶ海上ルートであったと考えられる」と。朝鮮では仏教が先に伝わった高句麗や百済では石積遺構は発見されていない。つまり、熊山遺跡は仏教の遺跡では無い。

 

5-3天道信仰との比較

五来重説「対馬にある天道信仰のメッカ天道法師塚もどこか似ている」。亀田修一説「対馬の八丁郭やヤクマの塔の石積は天道信仰によるものだ。塔の頂上に設けられた空間施設に石などを乗せており、韓国の石積遺構との共通点がある」としている。ヤクマの塔は韓国の石積遺構よりモンゴルのオボーがより近い。

5-4 黒潮伝播説
東南アジアからの黒潮伝播説(海のシルクロード)がある。インドネシア・バリ島の遺跡・パキスタンの遺跡は似ていない。奈良の頭塔、土塔を模して熊山遺跡が作られたとする説があるが似ていない。

5.5 榜示石蔵説
久野修義説「勝尾寺の榜示石蔵など、数ヶ所に類似遺構有り」は中世伝承であり時代があわない。

5.6 仏教以外の岡山の古代宗教説
任世権説(イム・セグォン)仏教以外の岡山の古代宗教説」に注目したい。「様々な形の石積み遺構が山全体に分布していることは韓国の場合と異なる。」と明確に問題点を指摘されている。

5.7 回壇説

五来重説は回壇説である。磐座(いわくら)であり、これを巡る行道が行われる聖なる石である。「戒壇の回りを新しい宗教の人達がぐるぐる回りながら信仰し回るから回壇だ」と。モンゴルのオボーも同一である。小高い丘の上にあり旅人はここでお参りする。周辺で石を拾い、時計回りにオボーの周りを3回転しながら、拾った石を投げて積んで行く。この時に旅の安全等を祈念する。

5-8       忌部氏の古代祭祀説

地名学による考察として伊部(忌部氏)に注目した小川光曜説(同志社大学教授・平成2)、丸谷憲二説(平成22)がある。忌部氏は古代神祇祭祀に携わる部民であり、熊山遺跡は忌部氏の古代祭祀跡である。』 丸谷憲二説では中国新疆ウイグル自治区の北部のイリ・カザフ自治州からカザフスタン南西部のアルマトイ州にかけて流れるイリ川と備前市伊里(イリ川)に注目している。田村園澄説では忌部氏は百済系渡来氏族であったとしている。今後、阿波忌部氏関連遺跡を調査したい。

5-9 大きな岩を何故割るのか

石積遺構が熊山全体に50箇所以上分布(標高350m以上の山中)している。石積みの石は大きな岩を割っている。大きな岩を何のために割るのかが解明されていない。一連の調査から推定されるのが、鉄を生ずる「十二の谷」を発見した「別部の犬(わけべの・いぬ)」である。鉱物を探し出す部民である。犬を祖先とする氏族とは和気氏である。つまり佐用の鹿庭(神庭)の鉄を発見したのは、和気清麻呂の先祖の部民たちであり、熊山で鉄を探した残骸だと考える。鉱物学の専門家の所見を待ちたい。

5-10 熊山でのヘマタイト(赤鉄鉱)の発見

 熊山で若狭鉄六氏は、1989(平成元年)に熊山の鉄として、ヘマタイト(赤鉄鉱)を発見している。

1989(平成元年)825日、NHKモーニングワイド にっぽん列島ピックアップ『謎の鉄鉱石を追う』放映。熊山の鉄 ヘマタイト(赤鉄鉱)発見が放映された。備前の鉄に注目し、この業績を高く評価している。NHKに対して再放映を依頼したい。

5-12 陶製筒形容器と出土遺物 説
陶製筒形容器炎帝、即ち、太陽の神を祀った祭器』とする太陽神説がある。若狭鉄六説である。しかし、陶製筒形の陶製容器(高さ約1.62m)の中に15点の遺物が収納(若狭哲六説)されていたとするが、未だに一般公開されていない。現状では考古学会で歴史資料として採用されないしかし、情報入手時にNHKOHKRSK等でテレビ放映されている。再放映を働きかけたい。忌部氏又は秦氏の遺物として考察したい。

5−13 ヴァン仏教遺跡とのつながり
 丸谷憲二氏よりタジキスタン共和国にあるヴァン仏教遺跡との繋がりを指摘いただいた。先進的な文化をもっていた突厥系ソクド人との繋がりは大変興味深い
 PDFにて是非ご参照いただきたい。



6  参考文献
@ 山陰新聞 昭和5735日「熊山戒壇(回壇)と修験道」
A 誌上フォーラム『熊山町史参考資料編』

B「備前熊山上の遺跡」『吉備考古 第86号』1953年 吉備考古学会。

C 『日本の仏塔』1969(昭和44)
D   山陽新聞 昭和551229

E 研修資料 『出口王仁三郎聖師と熊山』平成2(1990)みいず舎

F「熊山石積遺構」『熊山町史通史編上巻』平成6(1994)熊山町
G テレビ放送活動部門 参加資料 拡がるテレビ放送の反響〜視聴者と共に『古代吉備の謎に挑む』平成12(2000)度日本民間放送連盟賞 OHK 岡山放送株式会社
H テレビ放送活動部門参加資料『謎の熊山遺跡に挑む!』〜視聴者との共同作業〜平成13年度日本民間放送連盟賞 OHK 岡山放送株式会社
I 研修資料-1韓国研修報告書-『熊山遺跡群のルーツを求めて』平成13128日熊山遺跡の調査・保存・顕彰を進める会
J 『ふるさと熊山町の歴史が語りかけるもの-熊山町中央公民館歴史講座講演録』平成13年熊山町中央公民館
K  就実大学国際交流シンポジゥム『熊山遺跡は仏塔だった!-韓国からの逆照射』-主催 就実大学  平成15113日 山陽新聞社 岡山放送 蔚文化放送
L  岡山文庫225『霊山熊山』仙田実 平成15年 日本文教出版
M 『熊山南山崖石積遺構-その実態調査報告-』出宮徳尚 平成17年 吉備地方文化研究第15号 就実大学吉備地方文化研究所
N  熊山石積遺跡のなぞに迫るシンポジューム「熊山石積遺跡に迫る」平成222月 熊山遺跡群調査研究会 佐藤光範「石積Aは帝釈天の神殿か」下山宏昭「諸説に見る熊山遺跡」
O ふるさとの歴史講座U『熊野神社遺跡から佐治町の歴史を探る』シンポジゥム「熊野遺跡の謎に迫る」平成223月 佐治町熊野会・佐治町中央公民館

P 「韓国の熊山遺跡について」石田純郎 平成24216日熊山遺跡群調査研究会 

 

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最新「きび考」 第10号

7号 2012年 @古代アジアを論証する(2/2) 24年度総会基調講演より    矢吹壽年
A美作(後南朝と菅家)探訪記                     山崎泰二
B気になる神社あれこれ                        井上秀男
C連載 四国八十八ヶ所巡り「歩き(ウォーク)遍路の旅」     樋口俊介
D古代吉備を探る(1)                          吉備槌太郎(本松一郎)
E葦獄山(日本ピラミッド)登山記                   濱手英之
Fキリギス共和国と日本                        丸谷憲二
G編集後記                                編者
8号 2013年 @旭川の生成と古代吉備平野                    矢吹壽年
A先史時代の衣類の考証                       濱手英之
B考古ファンのじゃれごと8 縄文人と弥生人の関わりを記紀に見る 山崎泰二
C考古ファンのじゃれごと9 私の仮説を専門家が立証     山崎泰二
D父の遺作書に接して『五島列島高天原説』           村山三枝子
E宗良親王と南朝の忠臣の同行                   井上秀男
Fやきものの話し (陶磁器の分類、粘土とは)           延原勝志
G気比神宮末社と黄蕨国                       丸谷憲二
H連載 四国八十八ヶ所巡り 「歩き(ウォーク)遍路の旅」6   樋口俊介
I編集後記
9号 2014年4月 きび考9号
10号 2014年10月 @熊山遺跡とヴァン仏教遺跡                     丸谷憲二
A「延原家」と「井上家」の史的考察                 田中康之
B平賀元義の足跡と歌碑について                  井上秀男
  (親子2代の著作に接して   山崎泰二)
C吉備と秦氏 (2)                            山田良三
D連載四国八十八ヶ所めぐり 「歩き遍路の旅」8         樋口俊介
E『日本語で生きよう』(1)                       山崎泰二
編集後記

 

11号 2015年1月20日 きび考11号表紙
@たたらと地名                               浦上宏
A中国と漢字伝来の時代                        矢吹壽年
A-1中国と漢字伝来の時代                      矢吹壽年
B高島から「子妊石」の現状 薮田氏からの手紙から      山崎泰二
C大廻り小廻り山                            丸谷憲二
D菩提の道場(愛知県 9)                       樋口俊介
E私の歩き遍路                              重康邦夫
F宇喜多氏から備前池田氏への展開                 井上秀男
G”ねぶた!一人旅                            濱手英之
H日本語で生きよう(2)                          山崎泰二
I活動報告
K例会案内編集後記
12号 2015年6月30日 きび考12表紙
きび考12本体
15号 2017年3月20日 きび考15表紙 目次 中西厚
丸谷憲治(熊山霊仙寺と唐招提寺を結ぶ鑑真の樒伝承の再現) 井上秀男(地名と名字から) 樋口俊介(歩き路の旅13)その1
樋口俊介 山崎泰二(古の散策をエッセイで紹介) その2
山崎泰二 丸谷憲二(弓月国の考察) その3
丸谷憲二 その4
丸谷憲二 その5
丸谷憲二 その6
編集後記 その7

16号
17号 2017年11月 きび考17目次
きび考17本文







 

『きび考』寄稿論文の紹介

仮称

1

4.26

 MB

20107
(
平成22)

()日本先史古代研究会 設立宣言 賛同者

()設立総会及び記念講演会 基調講演       若狭哲六

      記念講演(APCA経済委員会議長)     大守 隆

      (吉備津彦神社社家(王藤内)79代当主)

     当会の設立セレモニーを終えて     山崎泰二

()寄稿

@私の熊山遺跡                  若狭哲六

A備前焼 @土の章                木村玉舟

B吉備の国の語源「黄蕨」調査報告書        丸谷憲二

()編集後記

仮称

2

5.61

MB

201010

秋季号
(
平成22)

 

@熊山遺跡の出会いと研究             若狭哲六

A会活動 余禄

B連載 備前焼 A窯の章             木村玉舟

C考古ファンのじゃれごと             山崎泰二

 仮説-1神武東征=弥生の水稲生産の東進化

 仮説-2弥生晩期(13世紀)日本の中心は吉備だった(楯築墳丘墓は卑弥呼の墓だ)

D巨石探訪記@金山巨石郡(岐阜県下呂町)      延原勝志

E来住法悦と日槇書状に関する考察         井上秀男

F連載 『吉備国の語源・黄蕨調査報告-2』   

 黄蕨国の解析「突蕨国からの渡来者集団が建国」  丸谷憲二

G編集後記                   

3

4.30

MB

20111

新春号
(
平成23)

@  仮称きび考2011(平成23)新春号(3)「設立宣言」

A  平成23年 年頭の挨拶             若狭哲六

B  歴史の真実を追究する若狭先生         劉 勝徳

C  倭迹迹日百襲媛命と五十狭芹 彦命        池田博文

D  古代土器製塩 一つの方法           松浦宣秀

E  連載 考古ファンのじゃれごとA        山崎泰二

「吉備から見た弥生晩期から古墳時代の始まり」

F天津神社 立石考                 延原勝志

G岡山歴史研究会が発足               山崎泰二

H備前・播磨地域の渡来人「秦氏」と神社について   井上秀男

I新連載 四国八十八ケ所巡り「歩き遍路の旅」    樋口俊介

J岡山「古代吉備の謎を探って」     吉備樋太郎(本松一郎)

K連載 川上神社の古代文字(絵文字)の考察      丸谷憲二

L編集後記                     編集委員

4

6.44

MB

20117
(
平成23)

@古代吉備に新たな視点(新刊書にわせて)      若狭哲六

A若狭会長の出版記念祝賀会の報告         山崎泰二

B王藤内隆盛と曽我物語              大守 隆

C連載 考古ファンのじゃれごとB         山崎泰二

「吉備から見た弥生晩期から古墳時代の始まり

D縄文土器文化に秘められた謎           矢吹壽年

E土の地名と神社めぐり              井上秀男

F新連載 四国八十八ケ所巡り「歩き遍路の旅」A  樋口俊介

G『吉備国の語源・黄蕨について-3

  『吉備(黄蕨)国・高嶋宮伝承の解析』      丸谷憲二

H編集後記                    山崎泰二

5

9.97

MB

20112
(
平成24)

@古代吉備の遺跡と取り組み30年           若狭哲六

A笠岡高島遺跡 探訪紀行              山崎泰二

B笠岡市高島 河田浩次氏所蔵 耳形柄頭長剣調査報告 丸谷憲二

C二千年の歴史 岡山の魅力             楠 敏明

D九州説と畿内説の邪馬台国論を考える(1)      中島康之

E連載 考古ファンのじゃれごとC          山崎泰二

「古代社会の大産業革命と異民族の融和 水耕稲作乾田栽培方式

F信濃から西国に下った井上氏族           井上秀男

G連載 四国八十八ケ所巡り「歩き遍路の旅」B    樋口俊介

H編集後記                     編者

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MB

20117

 

@古代吉備解明への道程                        若狭哲六
A古代アジアを論証する(1/2) 24年度総会基調講演        矢吹壽年
B問題提起「邪馬台国は吉備だった」                 前田忠興
C笠岡高島からの便り                           中島康之
E連載考古ファンのじゃれごと D倭族=安曇族は海人だった  山崎泰二
F大嘗祭の沿革について                         井上秀男
G連載四国八十八ヶ所巡り 「歩き(ウォーク)遍路の旅」      樋口俊介
H備前西大寺地名考 金山の考察                   丸谷憲二
I古事記編纂1300年を思う 出雲路の探訪記            濱手英之
J編集後記                                 編者
   

 

 

7号 2012年 @古代アジアを論証する(2/2) 24年度総会基調講演より    矢吹壽年
A美作(後南朝と菅家)探訪記                     山崎泰二
B気になる神社あれこれ                        井上秀男
C連載 四国八十八ヶ所巡り「歩き(ウォーク)遍路の旅」     樋口俊介
D古代吉備を探る(1)                          吉備槌太郎(本松一郎)
E葦獄山(日本ピラミッド)登山記                   濱手英之
Fキリギス共和国と日本                        丸谷憲二
G編集後記                                編者